メディア掲載 中日新聞 2012年3月17日 朝刊
中日新聞 2012年3月17日 朝刊 8面 【働き方の行方 2012春】より転載
88歳社長の福祉ベンチャー
「寝たきりの老人を減らしたい」。長年にわたって、二輪車製造などに携わってき た溝渕定さん(88歳)が、こんな気持ちで77歳の時に立ち上げたベンチャー企業「テクノ・マイス」。十年が過ぎ、ようやく経営が安定してきた。福祉製品をさらに広めていくことで、超高齢化社会を支えようとしている。
浜松を選んだのは食べ物がたくさんあったから
高知県出身の溝渕さんが浜松を訪れたのは、浜松工業専門学校(現・静岡大工学部) に入学した1944(昭和19)年だった。「戦争中で食料が少なかった。温暖で食べ物が たくさんある所に行きたかった」。地理の教科書を眺めていると、ミカンやカツオ の特産品が描かれた静岡県に魅力を感じた。
同級生には本田技研工業(ホンダ)元社長の河島喜好さんがいた。
卒業後は、自動車修理の丸正商会に入った。工場から数百メートル先にあった本田技研工業の工場で、河島さんがバイクを設計していた。その姿に影響されて、溝渕さんが開発したのが「ライラック号」だった。
同級生には本田技研工業(ホンダ)元社長の河島喜好さんがいた。
卒業後は、自動車修理の丸正商会に入った。工場から数百メートル先にあった本田技研工業の工場で、河島さんがバイクを設計していた。その姿に影響されて、溝渕さんが開発したのが「ライラック号」だった。
年寄りになった時のことを考えて仕事をしよう
丸正商会が経営不振で倒産した後、ブリヂストンサイクル工業でバイクの製造を担 当したり、ギョーザ製造機の開発を手掛けてきた。
77歳で会社勤めを辞めたものの、「隠居するには早い。年寄りになった時のことを考えて仕事をしよう」と考えて、一千万円の資金を集めて「テクノ・マイス」を立ち上げた。
「バイクを作っていた時は高齢化社会という言葉がピンと来なかった。
自分の足が痛くなってきて、自分もやがて行く世界だなと気付いた」。
高齢者の立場から開発に取り組み、小回りが利く「六輪車いす」や、座席を外して入浴できる車いすを作った。妻が脳梗塞を患ってからは、自宅でも使っている。
経営が軌道に乗る転機になったのは、足を載せてスイッチを入れるだけで、ふくらはぎの屈伸運動ができる装置「イージ・ウォーク」が売れ出してからだ。
介護老人保健施設の職員から意見を聞きながら、足を動かす角度を調整して製品化にたどり着いた。
77歳で会社勤めを辞めたものの、「隠居するには早い。年寄りになった時のことを考えて仕事をしよう」と考えて、一千万円の資金を集めて「テクノ・マイス」を立ち上げた。
「バイクを作っていた時は高齢化社会という言葉がピンと来なかった。
自分の足が痛くなってきて、自分もやがて行く世界だなと気付いた」。
高齢者の立場から開発に取り組み、小回りが利く「六輪車いす」や、座席を外して入浴できる車いすを作った。妻が脳梗塞を患ってからは、自宅でも使っている。
経営が軌道に乗る転機になったのは、足を載せてスイッチを入れるだけで、ふくらはぎの屈伸運動ができる装置「イージ・ウォーク」が売れ出してからだ。
介護老人保健施設の職員から意見を聞きながら、足を動かす角度を調整して製品化にたどり着いた。
今後も販路を広げ、介護予防や医療費削減に貢献していきたい
浜松ホトニクス中央研究所で使用効果を調べると、十分間の使用で、ふくらはぎの血行が促進することが分かった。リハビリにも応用できるよう改善を重ね、高齢者向けの健康情報誌で売り込んだ。
一年前から販売台数が伸び始め、これまでに約三千台を販売。若い営業マンを雇い、業績も上がってきた。米寿を過ぎても“現役”の溝渕さんは「人間は目標を持っていないといけない。
今後も販路を広げ、介護予防や医療費削減に貢献していきたい」と意欲的だ。
一年前から販売台数が伸び始め、これまでに約三千台を販売。若い営業マンを雇い、業績も上がってきた。米寿を過ぎても“現役”の溝渕さんは「人間は目標を持っていないといけない。
今後も販路を広げ、介護予防や医療費削減に貢献していきたい」と意欲的だ。